お笑い芸人波田陽区さんに聞く芸人生活での苦労と福岡での暮らし。

左から田村社長、波田陽区さん、枡田絵理奈さん、広報岡野さん

Nanase Tsukuya / 佃屋 七星

2023年4月最初のLFB RADIOのゲストにお越しいただいた、波田陽区さん。地元下関からどのように成功を掴み、芸人としてブレイクしたのか。また、現在は福岡にお住まいとのことで、福岡移住の裏話についてもお話しいただきました。収録中には、ネタも披露して下さいました。

芸人生活での苦労とは

――――地元が下関の波田さんが芸人を目指したきっかけは?

波田陽区さん:

「僕が子供の頃に、明石家さんまさんや、ビートたけしさんが“オレたちひょうきん族”という番組を放送されており、ダウンタウンさんが“ダウンタウンのごっつええ感じ”という番組が放送をされていたことで、クラス中の男子皆、お笑いが大好きでした。僕もその時からお笑いはいいなと思うようになり、「お笑いをする=モテる」という印象がありましたが、当時モテていなかったこともあり、モテたい願望があったのでお笑いを始めました。高校は男子校でしたが、文化祭で友達とコントを披露したりしました。ウケはしたものの、モテはしなかったです。(笑) 大学でも遊びとして友達とコントはやっていましたが、いざ四年生になると友達は企業に就職し、当時22歳でしたが僕1人で東京に行くことになりました。」

――――上京してから売れるまでの芸人生活について教えてください。

波田陽区さん:

「22歳で上京して、ギター侍のネタをしたのが30歳ギリギリぐらいでした。今もお笑い芸人は東京にたくさんいますが、皆さん高齢化しているせいか、28歳、29歳はさほどおじさんではないと感じます。貧乏ですがご飯は先輩が奢ってくれるし、夜はコンビニのバイトをしていたので何とかギリギリ楽しく生活していました。でもやっぱりずっとモテなかったです。(笑) テレビに出れば、“上戸彩さん”のような綺麗な方と付き合えるという夢を抱いて、とにかくテレビに出たい・ラジオに出たいという願望は持ち続けていました。28,29歳までは何もなく、芽も出ませんでしたが29歳ギリギリで、エンタの神様に引っかかったという感じです。」

ブレイクのキッカケ

――――運命が変わったのは2004年のテレビ出演でしたが、当時の反響はいかがでしたでしょうか?

波田陽区さん:

「ギター侍以外にもネタはやっていましたが、エンタの神様でたまたま引っかかったのが“ギター侍”のネタでした。実はギター侍のネタは、本当はもっと暗いネタでした。いざ収録の現場に行った時にカメラが10台以上あり、お客さんも300名くらい入っていらっしゃって、皆さんこっちを見ている、そんな仕事が今までなかったのでテンションが上がってしまって、急に「言うじゃな〜い?」とアレンジを加えてしまいまして、それがウケました。僕が1人に対して、お客様は300名でしたのでいつもの「残念。」よりも大きな声で「残念!!」と言ったら今までにないくらいお客さんが笑ってくださって、人生で1番ウケたのが多分あの日だと思います。これが30歳になる手前の3月の出来事ですが、父親が『30歳になったら、芽も出ないからやめなさい。』と言われていたので、本当に30歳になったら真剣に考えないといけないと思っていた矢先のエンタの神様でした。エンタの神様は収録しても、ウケなかったらお蔵入りになってしまうという厳しい世界ですが、その日ウケたことで当時の演出家の方が、毎週出してみようかということになりまして、そこから毎日人の悪口を書く日々が続くようになりました。本当は人の粗を探すような、そんな人間ではなかったので、平々凡々と生きていたかったです。エンタの神様とうちの会社の話し合いで、エンタの神様で育てるから他の番組に出ないようにしようということで、そこから9月までエンタの神様にしか出ていませんでした。人の悪口を書き続けるという7ヶ月間でした。」

――――月で2,800万円貰ったという記事を拝見したのですが、ブレイクしてどれくらいの期間でしょうか? 

波田陽区さん:

「毎月倍々で増えていきましたが、どうしてかというとエンタの神様への出演はもちろん、10月からはその他の番組やCM、イベントにも出演できるので朝の5時から夜の1時、2時まで働きタクシーの中で仮眠をとる、という生活が毎日続いていました。本の出版やDVD、当時流行っていた着ボイスなど『波田から絞り出せるものは絞り出せ、使えるものは全部使え』ということで周りの方々が考えてくださったことで、1回だけ月に2,800万円貰うということがありました。モテないただの0円男が急に通帳に2,800万円入りましたから、当時は調子に乗ってしまいました。」

福岡での活動に触れて

収録時の様子

――――2016年に移住をされていますが、移住先に福岡を選んだ決め手はあるのでしょうか?

波田陽区さん:

「僕が40歳の時に仕事がほとんどなくて、会社のおかげで何とか営業に行けたりして、バイトはせずに暮らせていましたが本当に不甲斐ないと思う生活が続いていて、『休みは多い、世の中にも出てない、このままで俺はいいのか。』と思っていました。街を歩いていても、『まだ芸人やっているのか?』とか『残念。』と言われて、不甲斐ないのは自分のせいですが10年くらい悶々としていて、40歳という区切りで環境を変えようと思いまして、会社の支社が丁度福岡にあり、僕が下関市出身で奥さんが熊本県出身なので福岡が真ん中で地元にも帰りやすいということもあり、心機一転、福岡でお世話になろうと思い、移住しました。子供が幼稚園卒業のタイミングで、友達と別れてしまうので申し訳ないという気持ちはありました。移住した後もたまにテレビやラジオにも出演はしていましたけど芸能界だけの仕事では食べていけなかったので、東京での生活と変わらず週5でバイトは続けていました。そして、本当に偶然ですがDr.コパさんが家の風水を見るという福岡の番組で、『ここに黄色の物を置こう。ここの〇〇をこっちに移動しよう。』と色々してくださった1週間後にリオオリンピックが開催され、そこで卓球の水谷隼さんがメダルを取って、何も努力をしていない僕が「水谷さんに似ているからという理由で」スポーツ新聞に名前が載り、仕事がたくさん舞い込んで来て、NHKさんが特集を組んでくださるということもありました。慌てて水谷さんに寄せるために衣装とラケットも買って、東京に行って水谷隼さんの偽物の仕事をしたりして、まるで2004年の時のような忙しさでした。水谷さんにお会いしたら、水谷さんも僕が昔、テレビに出ている時に『波田陽区に似ている!』といじられていたそうで、時を経てそれが逆になり、『波田さんが僕の偽物をしてくださることで、1人でも卓球に目を向けてくれる人が増えたら嬉しいので、好きにやってください。』と言ってくださり、水谷さんご自身が使っていたユニフォームも頂いて、公認してくださったことで堂々とネタを披露していたので、バイトに行けなくなりました。そしてバイトを辞めて、水谷隼さんの仕事は減りましたが、ありがたいことに営業の他の仕事が増え、九州・山口でも少しずつ仕事が増えてきて、バイトせずにギリギリ今に至るという感じです。そして一昨年、水谷さんが東京オリンピックでメダルを取ってくださったので、その際も水谷さんにお世話になり、プチ仕事がたくさんありました。もうリオオリンピックから8年経ちますが、水谷さんのおかげで今があると言っても過言ではないと思います。

――――移住についてのご家族の反応は、いかがでしたでしょうか?

波田陽区さん:

「小学校1年生の時に来た息子も、今は中学1年生ですから福岡にも馴染んでくれて、奥さんも実家に近いこともあり、元々熊本時代にいた友達も福岡にいたりして近所に友達もできて、福岡での生活に馴染んでくれていると思います。福岡は都会なので困ることもなく、山口県で仕事をすることで他の県で仕事をするよりは、皆も応援してくれるので僕は今がすごく良いと思っています。ただ欲を言えば『活躍しています!』と言えるくらい仕事をしたいですね。東京にいた時より、今仕事があることに感謝しています。」

最後に

ーーーーラジオに出演していかがでしたか?

波田陽区さん:

「友達がいない分、こんなに話を聞いていただけて嬉しかったです。私、波田陽区もなんとか元気にやっておりますので、皆様これからも応援よろしくお願い致します。」

Epilogue


いかがでしたでしょうか?私自身、波田陽区さんと母校が一緒でとても誇らしい気持ちになりました。収録中は本当に笑いが絶えることなく、賑やかな収録になりました。また、芸人生活での苦労話を伺ったことで、波田さんを応援したい気持ちが強くなりました!これからのご活躍にも目が離せませんね。

作者プロフィール

田村ビルズグループ 
佃屋 七星 / Nanase Tsukuya
1999年生まれ下関市出身。大学では韓国語を専攻していました。田村ビルズグループの企業理念に共感し、2022年に新卒で入社。歴史が好きで、御朱印帳を持って観光スポット巡りをすることが好きです。

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