明治12年創業、140余年つづく老舗企業。そう書くと、安定企業と思われがちですが、実態はその逆です。
山口県長門市で創業以来、変化し、挑戦し続けてきたからこそ今の田村ビルズグループがある。
5代目、田村伊幸へのインタビューをもとに歴史を振り返ります。
はじまりは、商売に惹かれた農家の息子のわがまま。
創業者の田村伊右エ門は、農家の息子でした。しかし農業ではなく、どうしても商売をやってみたいと、明治12年、勘当覚悟で商売を始めたと聞いています。そのスタートアップはなんと「こんにゃく」の製造販売。これが食料品店「田村屋」のスタートでした。
モノが足りない!社会のニーズを受け生活必需品販売へ。
2代目の田村伊三治から、私の祖母である田村幸子が3代目となり女性経営者として当時の「田村商店」を切り盛りしていました。その当時はセメントやブロックなどとともに、鍋や茶碗、練炭、塩という生活必需品を取り扱っていたようです。実は両隣も同じような商売をしており、同業者が3軒並んでいても商売が成り立つほど、需要があったのですね。
時代の風を追い風に、建材販売へと事業をシフト
昭和の高度成長期、住宅の建設が盛んにおこなわれるようになり、それに合わせて4代目である父・田村伊晨が「建材屋」へと生業(なりわい)を変化させていきました。法人化を経て多店舗展開を始め、長門萩地区に4店舗の店を構えていました。
震災が、人生を変えた。
関西の大学を卒業後、大阪の経営コンサルティング会社で働いていた私の頭には、田村ビルズグループを継ぐという選択肢はありませんでした。考えが変わる契機となったのは、1995年の阪神淡路大震災です。震災3日目、まるで戦争映画のような焼け野原を6~7時間かけて歩いたときの記憶は今でも忘れられません。ひとり歩きながら「山口に帰って、廃棄物や環境に関わる仕事をしよう」と決心しました
安定型の最終処分場保有
新卒採用スタート 経営理念の浸透と新卒採用。それがすべての始まりでした。
当時、専務として会社の将来を憂い、大方の反対を押し切って新卒採用に力を入れました。優秀な若手を採用し、不動産事業を新規に立ち上げ、経営理念の浸透にも多くの時間を割きました。時には狂ったように没頭していました(笑)。しかし、あの時の選択は間違っていなかったと感じています。
5,000人の経営者を前に。
稀代の名経営者として知られる稲盛和夫氏を前に、経営者としての方向性を確認し、また新たにその思いを決意する場となりました。
九州進出の第一歩