――――早速ですが、いつも若々しい大畑さんですが、若々しくいるコツは何ですか?
大畑さん:
「娘が 2 人いるのですが、娘に歳をとったなと思われるのが嫌です。現役の時から自分の中でテーマを持って生きていますが、娘が大きくなって 2 人で買い物をしている時に、娘の友達に見られてそれが学校で変な噂になる父親になろうというのが、娘が生まれてからずっと持ち続けているテーマです。(笑)現役の時から変わりませんが、鏡を見て、常に今の状態を把握していますし、体重の管理もしっかり行っています。ストイックな生き方をしているわけではないのですが、自分の中のルールは曲げないようにしています。」
――――世界で活躍するための子供の教育方法がありましたら教えてください。
大畑さん:
「僕の母親の教育方法は『程よいバランスをずっと保ってくれた』というのはあります。父親もそうでしたが、あまり期待をされていなかったと思います。子供は期待されるとプレッシャーになってしまいます。僕も子供の頃からラグビーをしていたので、どうしても一つのことをやっていると、大体親も熱量をもってサポートしてくれますが、子供がある程度のレベルまで来ると、親の熱量と子供の力量が逆転してしまう時が来ます。子供だから常に一本調子で突き進むことは不可能なので、そんな時に『なんで親がこんなにサポートしているのに』と思われることが大半だと思いますが、うちは全くそうではなかったです。そういった意味では応援はしてくれているけど、両親から圧力のようなものを感じることもなかったです。でも活躍するとしっかり喜んでくれますし、自分の感情と親の感情の温度差がなかったことが良かったと思います。
僕もラグビーの現場で子供達と接する機会が多くありますが、親御さんたちが『もう少しラグビーを頑張ってほしいけど、どうしたらいいですか』や『ラグビーが嫌みたいで、止めてほしいです』とご相談を受けます。そんな時は、『やめて新しいことに挑戦した方が良いと思いますので、親が子供たちの自尊心とか可能性の蓋をするのはやめてください。』とよく言っています。」
――――どんな少年時代でしたか?
大畑さん:
「小学生からラグビーをしていましたというと、力自慢のヤンチャなイメージを持たれるんですけど、僕が大阪生まれ大阪育ちで下町の公立小学校に通っていたので、余計にヤンチャなイメージを持たれることがあります。実際は真逆で、プールに入って泳げなくて泣いてしまうことや、滑り台の上から降りられなくて泣いてしまうような泣き虫な子供で、人と同じことができない子供だったからラグビーをしたという感じです。
基本男の子はみんな野球やサッカーをしていましたが子供だから友達は欲しいのですが、みんなが興味を持っていることに対して興味をいだけなかったので、逆になってやろうと。みんなが興味を抱く人間になろうと思いました。クラスの中でみんなが同じような消しゴムとか鉛筆を持っていても、1 人だけ違うものを持っていたら興味を惹かれますよね、だから何か惹かれるポイントを作ろうと思った時に、足が早かったのでスポーツをしようと思い、野球以外でみんながやっていないスポーツで一番身近にあったのがラグビーでした。正直にいうとラグビーを見て、カッコいいとかすごいとか、やりたいとかは思っておらずとにかく 1 日でも早く何かを始めないと、この環境の中で自分は友達ができないと思ったので、当時はラグビーをテレビで見る機会も多く、たまたま父が見ていたラグビーを『こんなスポーツがあるんだ、周りのみんなはやっていないからやろう』と思ったのが 1 番のキッカケです。 実家で商売をしていて、そこに来られるお客さんがラグビーの良いチームを紹介してくださって、家から 1 時間くらいかけて行かないといけない場所だったのですが、自分の学校の友達とさえ仲良くできないのに、新たに入るコミュニティではどんな環境や人なのか分からないし馴染めないからウジウジしていました。そうしている間に練習は始まって、最初の練習がグラウンドの端から端まで走るというトレーニングで、チームで 1 番足が速いと言われていた人よりも僕の方が足が速くて、その瞬間みんなが振り向いて注目してくれました。『みんなのベクトルがこっちに向いた!』と思えた一瞬の出来事で、この競技を頑張ろうと思いました。」
――――中学校も高校もラグビーをされていたそうですが、やめたいと思った時はありますか?
大畑さん:
「ありますよ。小学生の時に日曜日の朝はキン肉マンを見ることを楽しみにしていたのですが、その時間はラグビーの練習があるので見られないんです。月曜日に学校に行くと必ずみんながキン肉マンの話で盛り上がっていました。友達がいない上に、みんなと共通の話題もなくなってしまうとその時だけは流石にラグビーをやめたいと思っていました。好きとか楽しいとかそのような感情でやっていた訳ではなかったので、『自分の武器を磨く!』という思いでやっていました。変な子ですよね。(笑)」
――――メンタルはどのように整えられているのでしょうか?
大畑さん:
「僕は心が弱いです。自分自身が弱いから逆に逃げられない環境を作っていました。高校時代で言うと、同級生はみんなラグビーの推薦で入っている人たちなので、高校 3 年間の中で自分がどうしたら成長できるかを考えて目標を立てました。自分の真っ白な上履きに個人の目標である“高校日本代表”と、チームの目標である“全国制覇”を書きました。今の大畑大介であれば頷ける志だなと思われるかもしれませんが、当時はラグビー推薦で招かれたわけでもなく、上履きに落書きをしてもいい学校でもなかったので周りにはバカにされました。学校の先生には『無理だ、調子に乗るな』と言われましたが『自分の心の弱さを認め、学校にきて足元を見た時に目標を忘れず、3 年間しっかり意識するために 書いています』と説明をしました。すると先生からは『熱量がなくなっているように見えたり、逃げているように見えたら言います、今は認めましょう。』と言ってくださいました。認めてもらった以上は頑張らないといけないので、そこからは本当に自分自身にプレッシャーをかけながら一つ一つ階段を登って行った感じです。」
――――代表トライ数 69 は今も破られない世界記録ですが、この素晴らしい成績を残すまでのお話を聞かせてください。
大畑さん:
「ラグビーは一度もボールに触れないで試合が終わってしまう選手がいて、役割によってはプレーの質が変わったりします。その中で自分の役割は何かというと、ボールをトライラインの向こうに運ぶことです。当然の如く、代表の試合もそうですけど“1 試合1 トライ”というのは自分に課されたノルマだと思っていました。そう言った意味で自分が代表の試合をしていても、トライの数を重ねていても、自分よりも国際試合を多く経験しているような海外のすごい選手がいっぱいいるので、世界記録というのはすごい数だと思っていました。それが見えて意外に近いなと思った時に、取りに行かなければと思いましたね。
子供の時にラグビーを始めたというお話をしましたが、当時僕のヒーローだったのが松尾雄治さんでした。存在がすごくカッコいいなと思っていたのですが、学校の友達に話しても分かってくれる人が誰もいなくて寂しく、悔しかったです。その時にオリンピアンがメダルを持っていますというように、ラグビーにも名刺代わりのものが必要だと思っていました。
その記憶があって世界記録が近づいてきたので『取ろう!』と思って取りました。(笑)それでも世界記録を取る最後の最後はとてもプレッシャーがあって、数を超える自信はありましたがとるタイミングをどこにしようかと考えていました。僕自身がずっとラグビーをしていて大事にしてきた事が、勘違いの一つではありますが『大畑大介という存在がラグビーの間口の 1 番大きいものにしたい』と思っていて、自分が結果を残すことがどれだけ大きく報道されるかを意識していました。他の競技の兼ね合いも含めて、世の中のニュースの中で掻き消されないように見計らっていました。丁度僕が世界記録をカウントし始めたタイミングで、サッカーのワールドカップの開催が迫っていました。それまでには結果を残さないと、ワールドカップ期間中に結果を残しても、大きく報道されることはないと思いました。そこからさらに逆算して、5 月 14 日という日がすごくいい日だなと、というのも背番号が 14 で、会場が大阪、さらに母の日ということもあって色々なストーリーができると思って、その日空けておいてくれと随分前から宣言していました。何とかクリアできて、インタビューで何を言うかも決めていました。でもなかなか取材の方が僕の言いたいことを引き出してくれず、最後に一言言わせてくださいという感じで『この大阪の地で、母の日に世界記録を更新できました。これは親に感謝です。オカンありがとう!』と伝えたのですごく盛り上がるのかと思ったら、会場はそうでもなくキョトンとしていて、原因は会場の音響設備でした。何を言っているか分からない状況になってしまいました。(笑)」
――――最後に、記事をご覧になってくださる方に応援メッセージをお願いいたします。
大畑さん:
「色々な情報が入ってきやすい世の中なので、自分を軸に物事を考えられないような環境になってきていると思います。自分自身にベクトルを向けて自分がなりたいもの、周りと比べず突き詰めていくことが大切だと思います。それが自分の幸せにもなりますし、何をすべきか見えてきますので、今を本当に一生懸命に生きていただきたいと思っております。」
Epilogue
いかがでしたでしょうか?大畑さんの向上心や熱意の高さに私自身も負けていられないと、強く思いました。ここには文字数の関係上載せられないほど、内容がぎっしり詰まった面白いお話をたくさん聞くことができました。ラグビーの試合、見に行きたいと思います!!
田村ビルズグループ 広報
佃屋 七星 / Nanase Tsukuya
1999年生まれ下関市出身。大学では韓国語を専攻していました。田村ビルズグループの企業理念に共感し、2022年に新卒で入社。歴史が好きで、御朱印帳を持って観光スポット巡りをすることが好きです♩